掛川城と徳川家康の関係は、永禄十一年(一五六八)、今川家当主の今川氏真がこもる掛川城に徳川家康が攻め込んだ、「掛川城攻め(掛川城の戦い)」に始まります。
掛川城は、駿河守護今川氏による遠江侵攻の足掛けとして、重臣朝比奈氏により十五世紀末に築かれました。その後、朝比奈三代約七十年間の治世を経て、掛川城攻めにおいて徳川家康が奪取すると二十余年にわたり徳川氏が領有しました。掛川城の歴史において半年間に及んだ今川・朝比奈氏との戦いは、徳川氏にとっての遠江の覇権掌握とともに、名門今川氏の滅亡と言う東海の戦国史においても画期となった事件(戦い)でした。
掛川城と言えば、多くの人が「日本初の本格木造復元」で知られる白亜の天守を思い浮かべることでしょう。掛川城において初めて天守を築造した山内一豊が、近世城郭としての礎を築き、現代の我々が体現できる近世城郭掛川城のイメージを作ったと言っても過言ではありません。
ここでは、近世城郭としての掛川城ではなく、戦国時代、画期となった掛川城攻めにスポットを当て、戦いに至った原因とその背景、経過を説明します。その上で、掛川城に見る徳川家康の痕跡を紹介します。
掛川城からわずか五〇〇m程の地点には、掛川城攻めにおいて今川方の出城※1として使われた掛川古城があります。しかし、戦いがあったことを知る人は少なく、現在は寺院、公園として四季折々の木々花々に囲まれひっそりと佇んでいます。城郭としての古城の構造と、そこに残された家康の痕跡を紹介します。
掛川古城の本曲輪※2には、三六〇余年の歴史をもつ龍華院大猷院霊屋(以下、霊屋)が鎮座しています。この霊屋の建立の契機と背景を紹介するとともに、霊屋と家康とのかかわりを紹介します。