[三]
掛川城包囲網と
今川・徳川両軍の総力戦
家康は、まず北方の相谷砦に本陣※5を置き、長谷砦・曾我山砦・天王山砦の陣城を築きました。さらに、永禄十一年(一五六八)十二月二十六日には金丸山砦・青田山砦・笠町砦を築いており、掛川城包囲網が急速に整えられていったことがわかります。十二月二十七日には本陣を相谷砦から天王山砦に移し、掛川城下を放火するなど徳川方の攻撃が始まりました。
年が明け、永禄十二年(一五六九)正月十六日、家康は青田山砦・笠町砦・金丸山砦の守備の強化を命じ、自身も本陣の天王山砦に出陣、本格的な合戦が開始されることになります。掛川古城周辺では両軍の総力戦が展開、一進一退の攻防が続けられていました。
その後、膠着状態が続くなか、家康はさらに六ヶ所の陣城を築き包囲網の強化を図りました。
三月四日、家康は戦況打破を期して再度出陣、徳川方では本多忠勝らの諸将も参戦、対する今川方は城将朝比奈泰朝らが応戦、今川方百余人(徳川方六十余人)の戦死者を出すものの攻略には至りませんでした。
※5【砦・陣城・本陣】戦国時代、城攻めの戦法として、攻撃側が敵城の周囲に簡易的かつ臨時的な要塞をごく短時間に多数構築し、敵城への兵や物資の補給を絶ち孤立させ、最終的に開城(降伏)させるもので、戦国時代末期に多くの合戦で用いられた。本陣とは、城砦群の中で中核をなし、総大将が指揮を執る本営のこと。
笠町砦縄張図
掛川城の東700mの独立丘陵にある砦で、現在は神明宮が鎮座。社が建つ
平場を本曲輪とし、掛川城に対峙する南西側に階段状に配置された腰曲輪が残る。
天王山砦縄張図
掛川城の北900mの丘陵にある砦で、家康が指揮を執った本陣が置かれた。
現在は、龍尾神社が鎮座。明瞭な遺構はないが、古墳を利用した物見台が残る。
[四]
講和、そして開城へ
家康は十六にも及ぶ陣城による包囲と波状攻撃を展開しましたが、予想以上の今川勢の抵抗にあい、攻略どころか戦況の好転もみられませんでした。家臣からの進言もあり、力攻めは困難として、講和交渉が三月四日から始まりました。この頃、家康は堀江城の大沢基胤や天方城の天野藤秀らの西遠、北遠の抵抗勢力への執拗な調略※6を行っており、未だ遠江国内が不安定であったことがわかります。家康にとって、掛川城がことのほか堅固であったことに加え、この不安定下での長期戦は何とか避けたいため、和睦による開城へと決断せざるを得なかったとも言えます。
五月六日、講和が成立、掛川城は十五日に徳川方に明け渡され、氏真は戸倉城[清水町](大平城[沼津市]とも)を経由し、北条氏を頼り小田原に入りました。名門今川氏は、掛川の地で終焉を迎えたのです。
家康は重臣石川家成を城将に置き、本丸虎口をはじめとする城郭主要部の大改修を実施しました。今川氏滅亡後から豊臣秀吉の全国統一により徳川氏が関東に移封されるまでの約二十年間、掛川城は徳川方にとっての遠江の要衝の城郭に位置付けらました。
※6【調略】内通者(スパイ)を使って敵の中心人物を寝返らせたり、降伏させたり、謀反をおこさせたりするように仕向けること。
掛川城攻め城砦群
16の城砦の内、家康が指揮を執った本陣は、相谷砦と天王山砦だった。掛川城攻めの間、家康は浜松城からたびたび本陣に出陣していた。長谷砦には、酒井忠次、後に掛川城主となる石川家成が就き、青田山砦には、三方衆とともに後に高天神城主となる小笠原信興の名も見える。掛川城に最も近い笠町砦には、岡崎衆が配置されていた。この時代の砦は、平場である曲輪を造るほか、防備として柵を設ける程度の比較的簡便なものであったが、目的や場所により若干の機能差が見られる。
青田山砦から北方(掛川城方面)を望む
掛川城の南方を押さえる砦のなかでも、眺望が効き、
かつ機動性にも優れていたのが青田山砦。
杉谷城全体図
青田山砦とともに掛川城の南方の押さえを担った。街道(塩の道)を押さえ、監視するための曲輪・堀切のほか、兵を駐屯させる平場があった。発掘調査後、区画整理により消滅した。