山内一豊の掛川城
正保城絵図
天正18年(1590)、徳川家康49歳の時、豊臣秀吉により天下統一され、それまで掛川城を含めた遠江を領有していた家康は秀吉により関東に移封されてしまいます。すなわち、家康は関東に追いやられてしまいました。
さらに秀吉は、関東の家康を牽制するため東海道、中山道をはじめとする街道筋の要衝の城郭に、秀吉配下の武将を配置し、城郭整備をさせます。掛川城には山内一豊が入城し、一豊は最新技術を導入し、石垣を築き、天守に代表される高層の瓦葺き建物を建て、近世掛川城の礎を築きました。現在復元されている掛川城は、近世城郭として整備と拡張された17世紀中頃の様子がイメージされています。
掛川城・駿府城・浜松城をはじめとする関東に通じる東海道の要衝の城郭は、石垣に囲まれ天守をはじめとする瓦葺きの高層建物が建ち並ぶ、市井の人々にとってこれまで見たこともない城郭へと変貌したのです。人々は、少なからず驚嘆したはずです。
石垣、天守には城郭としての戦うための機能的側面とともに、秀吉は人々にそれらを見せつける、いわば権力誇示のシンボルとして配下の武将に城郭整備をさせたのです。
末期養子制度とは
保科正之肖像画(福島県 猪苗代町 土津神社蔵)
大名等の当主で世継ぎのない者が不慮の事故や急病などで死に瀕した場合、家の断絶を防ぐための措置としてとられた制度が末期養子制度でした。しかし、あくまでも緊急避難的措置であり、江戸時代のはじめ頃までは末期養子は禁止とされていたため、世継ぎがいないことによる改易が改易全体の四割を占めていました。
氏重のように世継ぎのいない藩主をはじめとした武家の当主にとって、お家を存続させるための最終手段とも言える末期養子を幕府が禁止した理由とは、そもそも幕府は家臣などが当主を暗殺し、自らの都合のいい当主に挿げ替えるなどの不法事態を危惧したことによる措置とも言われます。しかし、実際には幕府が大名の力を削ぎ統制力を強めることが最大の理由だと考えられています。
幕藩体制が未だ確立していない黎明期には、一定の効果がありました。ところが、世継ぎがないために改易により取り潰される大名家が続出、大名家を支えていた武士の多くが浪人となり社会不安が増すことになってしまいました。寛永14年(1637)に起こった島原の乱では、多くの浪人が一揆に加わり鎮圧を困難にさせた要因とされます。また、慶安4年(1651)由井正雪ら浪人が徒党を組み幕府転覆を謀った慶安の変(由井正雪の乱)は、幕府による大名統制策を変換させる大きな一因となりました。慶安4年(1651)幕府は末期養子の禁止を解きますが、実際には緩和措置がとられました。ちなみに、この緩和策を講じたのは、当時幕府の重臣として四代将軍家綱を補佐していた保科正之でした。正之は、氏重の甥にあたります。
末期養子の禁止が緩和され、50歳以内の者に限り認められるようになりました。ところが、氏重の子は5人すべて女子であったため、万治元年(1658)64歳で死去すると、世嗣断絶(世継ぎがないため家が断絶すること)のため改易となりました。末期養子緩和は、高齢であった氏重には適用されませんでした。
西郷局(おあい)
徳川家康の側室、二代将軍徳川秀忠の生母
1 通説にみる西郷局
西郷局(おあい)は「家康最愛の側室」、苦難の家康を支えた「糟糠の妻」などといわれます。しかし、西郷局に関する信頼できる史料はわずかで、その出自をはじめとする生前の様子は不明な点が多いのが実情です。
通説では、戦国時代(16世紀中頃)、おあいは今川氏配下の遠江国上西郷村(掛川市)の戸塚忠春(五郎大夫)を父とし、同じく今川氏配下の三河国八名郡(愛知県豊橋市)の西郷正勝の娘を母とし、上西郷構江にて生を享けます。生年については、天文21年(1552)とも永禄5年(1562)ともいわれます。父忠春の戦死後、母の再嫁先の蓑正尚(笠之助、服部平大夫)の養女となり、おあいは母の実家である西郷正勝の嫡孫義勝に嫁ぎ二児をもうけます。義勝の戦死後、おあいは叔父西郷清員の養女となり浜松城に出仕していたところ、天正6年(1578)、徳川家康の目にとまり側室となり、西郷局と呼ばれるようになりました。天正7年(1579)秀忠(二代将軍)を、その翌年に忠吉(尾張藩主)を産みました。以上が通説です。
通説では、ことのほか三河の西郷氏との関係が強調されていますが、その真相を検討してみましょう。
2 “西郷局伝説”の形成
西郷局が蓑(服部)氏出身で三河西郷氏の養女になったという話は18世紀前半に現れ、西郷義勝に嫁いだというのも19世紀初め頃に登場する、いわゆる“伝説”です。『家忠日記』『お国文書』『寛永諸家系図伝』『藩翰譜』など18世紀初めまでの史料等には、蓑氏や西郷氏との関係は見られず、戸塚氏出身ということが散見される程度です。
西郷局と西郷氏との伝説としての関係が唱えられるようになった背景には、17世紀後半から18世紀初めにかけ、4代将軍家綱の生母の親族増山氏、5代綱吉生母の親族本庄氏が大名に取り立てられ、また、綱吉生母は京の八百屋の娘と噂されるなど、将軍生母への関心が集まっていたことがあると推測されます。紀州藩から迎えられた8代吉宗の生母も出自不明とされ、好奇の目が向けられたようです。
そんな中で18世紀前半成立の『柳営婦女伝系』(編著者不明)が蓑笠之助を西郷局の父として登場させました。秀忠誕生前に笠之助がめでたい発句を家康に献上したという『甲陽軍鑑』の記事から発想したものと考えられます。
『柳営婦女伝系』は西郷局が西郷清貞の養女として家康に仕えたとしていますが、まだ西郷氏の存在は希薄です。それが18世紀末に編纂が始まった系譜集『寛政重修諸家譜』で、このとき西郷氏と西郷局は何重にも関係があると記されるようになっていきます。
西郷氏系譜に西郷局の記事を加えたのは、「系図作り」だったと推測できます。当時、大名家等の系譜に詳しい浪人などが、系譜が整っていない家から依頼を受けて作成し、識者等から問題視されることがありました。
将軍生母の生家なら大名でもおかしくないとして、西郷局が西郷氏と関係するとの見方が広まり、西郷氏が「系図作り」に依頼してまとめたのが『寛政重修諸家譜』の西郷氏系譜だと考えられます。西郷氏は江戸期前半に1万石の大名だった(後に5千石の旗本)ので、『寛政重修諸家譜』編纂官も納得して採用し、やがて通説化していったのでしょう。
3 西郷局の実像
では、確かな史料からみえてくる西郷局像とはどんなものなのでしょうか。西郷局の唯一の同時代史料である、家康の家臣松平家忠が記した『家忠日記』をみてみましょう。
天正17(1589)年5月21日条によると、三河の深溝(愛知県幸田町)にいた家忠のもとに、「駿川若君」(後の秀忠)の母親「西郷殿」が19日に亡くなったという知らせが届きます。家忠は23日に駿府に到着、24日に初七日の法要に参列しました。
西郷局関係の記事はこれだけですが、家忠は翌年の家康関東入国で1万石を与えられた有力家臣ですから、家忠の他にも多くの家臣が法要に参列したと推測できます。西郷局は家中で慕われる存在だったといえるでしょう。
浜松時代の家康の側室は西郷局以外にも何人かいましたが、天正11年(1583)正月に家康は、西郷局が産んだわずか5歳の長丸(後の秀忠)を後継者として披露しており、このことも西郷局の存在が大きかったことを示しています。
もう一つの信頼できる史料は、上西郷村(掛川市上西郷)に伝わった『お国文書』です。西郷局の従姉妹が記したもので、ここからは西郷局の名前、父親、氏神等のほか、家康から屋敷を賜ったこともわかる貴重な史料です。
4『掛川誌稿』の記す西郷局
『掛川誌稿』は掛川藩が文化3年(1806)頃から編纂に着手し、巻六までをまとめた斎田茂先が同12年に死去、山本忠英が引き継いで文政9年(1826)までにほぼ完成させました。忠英は、茂先編纂個所と見解が異なる場合は「附録」として自らの考えを記しています。
西郷局関係の記述は巻二にありますが、茂先は法泉寺の位牌が西郷斎宮夫妻のもので、西郷局の両親に当たると寺僧等が伝えていると記しています。また、西郷という地名は西郷氏が治めたことに由来するとして、西郷氏は応永(14世紀末~15世紀前半)頃に三河から移ってきたと推測しています。
一方、忠英は西郷局について『以貴小伝』に基づいて記すとともに、三河の西郷氏が江戸時代以前に来住したことはないと断じています。『以貴小伝』をそのまま信じるわけにはいきませんが、茂先の記述も口碑と推測に拠っていて史実とは受け取れません。
斎田茂先のために弁明しておくと、茂先は『寛政重修諸家譜』編纂に関わった林述斎の弟子松崎慊堂の友人で、屋代弘賢の弟子でもありましたから、西郷局の通説を知り得る立場にありました。にもかかわらず、口碑や推測による記述しか残せなかったのは、編纂の途中に42歳で亡くなってしまったからです。もし自らの手で完成させていたなら、通説を盛り込んでいたはずです。
なお、西郷氏系図によると寛政3年(1791)に死去した員総が初めて斎宮を名乗り、その養子や次の当主も斎宮を称しています。通説ができた18世紀末頃に上西郷村で、西郷局の父を西郷斎宮だといい始めたのでしょう。
5 西郷局にかかわる史跡・旧跡
前述のように、17世紀までの文献に西郷局は戸塚忠春の娘という記述は見えるものの、西郷義勝に嫁いだことや西郷清員の養女になったことなど三河西郷氏との関係は記されていません。西郷局が三河西郷氏と深い関係にあるという通説は、江戸時代後半に成立したもの結論づけることができます。
確実なのは、西郷局の名前が「あい」で徳川家中では「西郷」と呼ばれていたこと、上西郷村の戸塚五郎大夫の娘ということ、氏神は同村の五社神社と弓箭八幡、菩提寺が法泉寺ということぐらいです。
西郷局が側室だった頃の家康は苦難が相次いでいて、そんな時期に西郷局は家康に仕えていたのです。そして、家康がこれらを乗り越えた頃、局はその生涯を閉じました。生涯を閉じた西郷局は、駿府の竜泉寺(静岡市)に葬られました。息子の秀忠・孫の家光は寛永5年(1628)の三十三回忌を機に竜泉寺を移転・拡張し大寺院を建立、寺名も宝台院と改めました。西郷局の墓石は現在でも境内にあります。
上西郷(構江)には、西郷局の生誕地とされる屋敷跡(以下、構江屋敷)が伝わっています。屋敷を構えていた周辺が「屋敷構え」=「構江」の地名の由来とされ、現在は公民館・民家・水田になっており往時の面影を偲ぶことは難しいのですが、公民館の横には代々伝わる屋敷の家神様とされる斎様を祀る祠が残っており、現在でも毎年9月23日「いつき菩薩和讃」として地元の方々により手厚く祀られ続けています。
また、構江屋敷跡の北東600m程の地点にある五社神社は、西郷局の産土神社として崇敬され、秀忠の誕生にあたりこの神社を分霊し、秀忠の産土神社とされたのが浜松市の五社神社であると考えられます。
さらに構江屋敷跡周辺には、図書屋敷跡・東門などの構江屋敷に関わるとみられる地名が残っており、戸塚忠春の位牌があった観音寺跡、西郷局の氏神の一つ弓箭八幡の小祠も残されています。
(元静岡産業大学非常勤講師 中山正清)
弓箭八幡宮
西郷局肖像
(静岡市 宝台院蔵)
掛川市上西郷(構江)地区の西郷局にかかわる史跡・旧跡
西郷局墓石(静岡市 宝台院蔵)
西郷局をめぐる略系図