「松ヶ岡」と呼ばれるようになったのは、旧山﨑家住宅とお屋敷を囲む屋敷林を遠くから望むと、まるでこんもりと生い茂った松の岡のように見えたからと言われています。
掛川藩御用商人であった旧山﨑家住宅は、江戸時代後期に建築されたお屋敷で、明治天皇の北陸東海両道御巡行の際、行在所(あんざいしょ:宿泊所)として使用されたほど格式が高かったのです。
「松ヶ岡」(旧山﨑家住宅)は、敷地面積約5300㎡(一般住宅20軒分)、建物は一般住宅の10倍の広さです。(建物面積約1200㎡)
厳選された材料を使った主屋、長屋門、中門などは1856年(安政3年)の建築当時のまま残されています。
中門の奥の庭園には、どっしりした赤松、池、多数の灯篭、沓脱に使われている鞍馬石など風流な雰囲気が感じられます。
「松ヶ岡」(旧山﨑家住宅)は、6代当主が安政3年(1856年)に建築し、8代当主のとき明治天皇に行在所(宿泊所)として提供され、昭和8年(1933年)に建物と敷地が聖蹟として指定されました。8代当主の千三郎は、多額の私財を投じ、インフラ整備に取り組み、明治13年(1880年)に掛川銀行を創立、明治22年(1889年)に初代掛川町長に就任しました。
千三郎の甥である覚次郎は、日本における金融論、貨幣論の先駆者として活躍。
旧山﨑家住宅は、江戸時代において掛川藩を支え、千三郎と覚次郎という偉大な人物を世に送り出した家として、価値ある文化財であると言えます。